寄稿
平野 学   あれから十年たちました

 この秋には、長野に住む教え子が、おいしい桃を一箱送ってくれました。

 さっそくお礼の電話をかけると

「でさあ、先生お願いがあるんだけど」

「うん?なんだ」

「あちこちに送ったもんだから、お返しの品物が一度に集中して届くと食べきれないんだよね。だから、お礼はこっちが忘れたころにぽろっと届くように送ってもらえるとうれしいなあ」

 やれやれ、やっぱり昔とちっとも変わらない図々しさに脱帽です。こやつ、いくつになっても傍若無人なふるまいや、恩師(?)である私にもため口で話をする無礼なところもあるかとおもえば、地震や大雪のニュースでもあればすぐに「大丈夫?」と電話をかけてくるような優しい気遣いを見せたりするところもあり、なかなかとらえどころがありません。しかし彼には忘れがたい思い出があります。

 十年前の冬、流氷祭の少し前のことでした。そのころ、私はへんな居候をかかえ込んでいました。以前に赴任していた私立学校で一年間かかわった教え子です。やんちゃ坊主の彼は、あっさりと高校を中退してしまい、これからの道を模索中でした。他ならぬ桃の君のことです。

 実家の長野市から電話をかけてきて、しばらく泊めてほしいという彼に「お母さんは何て言っているんだ」とたずねると、今度は彼のお母さんが替わって出て

「どうしても行きたいと言ってきかないんです。ご迷惑おかけしてすみません」とのことでした。保護者が承諾しているならと引き受けると、しばらくして本人が到着しました。

 来るなり曰く、この街で短期のアルバイトの口を探して、滞在費を稼ぐつもりだと言うのです。こんな真冬に、しかも内地からふらりとやってきた十七歳の坊やにそんな甘い話はないよと諭し、滞在費の心配はいらないから、しばらく観光でもしたら家にお帰りなさいと説くのですが、なかなか聞き入れません。ならば、まあやってご覧なさい、自分でやってみてだめなら納得できるでしょう、とちょっと突き放して様子を見ることにしました。

 私は日中勤務がありますし、季節も真冬でしたから彼の移動の手段は一日数本の路線バスのみです。日中は自分で外出し、市内のいろいろな場所を見たり、アルバイトの口がないか探したりしていました。夜には、その日行った場所や見たことなどを話してくれましたが、案の定、彼の希望にかなうようなアルバイトは見つかりませんでした。

 ところが一週間ほどたったころでしょうか、彼は、明日から流氷祭の会場で祭の準備のボランティアをするんだと言い始めました。ボランティアであれば報酬は期待できないよと言う私に、そこには差し入れもあって食うには困らないのだと答える彼。流氷祭の会場で街の有志が開国している『アイスランド共和国』のことだとすぐにわかりました。それにしてもよくそこにたどり着いたものです。こうして彼の共和国通いが始まりました。初めは、夜車で送ってもらったりしていましたが、何日かすると「迎賓館」に宿泊もするようになりました。心配してのぞきに行くと共和国の人たちは「ああ、大丈夫。元気にがんばってるから心配いらないよ」と迷惑ではなさそうな感じです。

 祭が終わり、いよいよ彼も実家に帰ることになりました。いきいきと一冬の体験を語る彼の表情には、これからを生きる希望を見出したことが感じられました。いい時を過ごすことができてよかったと私もほっとして空港で見送りました。

 お世話になった共和国の方たちにお礼を言いに行くと、びっくりするようなおまけが待っていました。

「いやあ、すっかりだまされましたよ。まだ十七歳なんだってね」と言われて、えっと聞き返す私に

「申し込みに来たとき二十一歳だっていうもんだから、すっかり信じちゃったんだけれど・・・」という返事が返ってきました。ボランティアは十八歳以上が対象だというきまりだそうで、彼は、年齢を偽って潜り込んでいたのでした。私は平身低頭で「すみません」と謝るばかり。でも、この期間中周りの人たちにたいへん可愛がられていたことや、祭にかかわるいろいろな裏方の仕事をしたことなどを教えてもらい、年齢詐称については、もう過ぎたことだからと笑って許してもらいました。

 あれから、もうじきに十年になります。その間、彼は就職をし、結婚をし、かわいい娘もうまれました。その後も彼と共和国の人たちとの交流は続いているそうです。今回の桃は、彼らにもお送りしたのでしょうか。だとしたら、そちらでも「お返しは忘れたころに・・」などと図々しいことを言ってはいないだろうかと、やっぱり私は余計な心配をしてしまったのでした。