寄稿
平野 学   暗い・近い・小さい

 「暗い・近い・小さい」この三つが最近だめなのです。なにをかくそう、目でものを見るときの条件です。
 遺伝のおかげか、生育環境のせいか、こと視力に関しては私は子供のころから、なにひとつ不自由なく過ごしてきました。むしろものがよく見えすぎて、夜目遠目傘の内でもくっきりはっきり。人の顔だって毛穴まで見えてしまえば風情もあったものではありません。眼鏡にあこがれて伊達眼鏡をかけようかと思ったりしたこともあります。
 ところが、ここ一、二年はまず辞書の小さい字が読みづらくなってきました。気が付くと新聞を遠く離して読んでいる自分が。携帯電話でメールを打つ手も徐々に伸びていって、今では思い切りまっすぐになってしまいました。職場では日中は節電のため照明を消すようにしているのですが、これがまことに苦しい。まだ老眼鏡の世話になる歳ではないとやせ我慢していたのですが、ある日広辞苑を引くと、そこに書いてある文字が全く読めない自分に気づいてしまいました。近くには若い同僚がひとり座っているだけです。

「おーい、○○くん。ちょっとこれ読んでくれないか」
「どうしたんですか?」突然そんなことを頼まれて、彼はすごく怪訝そうです。
「字が小さすぎて読めないんだわ」
「え〜?こんなの読めないんですか?」
 私は思いきりむっとしましたが、いまはコイツに頼むしかないのでここは我慢です。
「ああ、そうでもないんだけど、ちょっと読みづらいんだよね」本当はまったく見えないのに、なんだかごまかしたような言い方になってしまいました。
 彼は、造作なくすらすらと辞書を読みあげたあとで、歯に衣着せず
「老眼鏡かけたほうがいいんじゃないですかあ」とのたまったのでした。
「・・・・・・」返す言葉のない私は敗北感でいっぱいです。

 くやしいですが、私はついに観念して近所の眼鏡屋さんに出かけました。
ドキドキしながらドアを開けると「いらっしゃいませ、眼鏡をおさがしですか」とビジネスライクな店員の声。でもそれがかえって気楽でした。
マニュアルにのっとって、いくつかの機械の検査をされたあと、眼鏡のフレームだけをかけて新聞を読まされ、そこに上からレンズが挿入されました。その瞬間、視界がクリアになって、ウソのようにはっきりと字が見えるではありませんか。いままでそれだけ、ものがよく見えていなかったことに驚きを感じました。
 というわけで、あこがれの?眼鏡はなんと老眼鏡になってしまいました。これで一応は小さな文字を読むことに関してストレスがなくなりましたが、かけはずしが面倒だったり、遠くを見るときに眼鏡のすき間から上目づかいに見る仕草が不評だったりで、いまでは、遠近両用タイプも使っています。
 先日、お年寄りの身体機能を若い人が体感する実験をテレビで放送していました。足に重りをつけたり、耳に栓をしたり、視界をさえぎって狭くしたりしてわざと体を不自由にして、それがどれほどたいへんなものかを体験するものです。実験に参加している人たちは、思ったよりもみなつらそう。それを見ていて、私自身いままであまりにも身体機能の低下に無関心だったことに気付きました。実際、私の母は耳が遠いですが、会話がうまく通じないと、私は声を荒げてしまったりすることもあります。なってみないとわからないというけれど、まったくその通りです。これからは、せめて配慮や優しさくらいは忘れないようにしなければと思ったのでした。

でも急にそんなふうにできるものでしょうか。自信はありませんが、がんばって努力はしてみます。