【ホノルルの風になったトンボ】

 

 私が陸上競技に打ち込んだのは、松本深志高校時代が最初で最後でありました。高校時代

は短距離を中心に行なっていましたが全く芽が出ず、それっきりとなっておりました。

短距離を専門にしている人というのは、古今東西を問わず長距離走は苦手なものです。まし

てやマラソンなど常道を逸した行為と考えておりました。

 大学を経て社会人になってからは、夏の間だけ時々ジョギングをしていましたが、その

目的は楽をして大量に汗をかき、美味しいビールを飲んだり水風呂に入ったりしたいという

非常に不純な動機でありました。

 深夜や休日にジョギングする私を見た後輩からは、「武内先生は、何が面白くて走ってい

るの?」と揶揄されたものです。

 

 2004年(平成16年)に神奈川県平塚市の済生会平塚病院に赴任し、2007年(平成19年)

からは湘南国際マラソンが開催される様になりました。

同マラソンは、神奈川県の風光明媚な白砂青松の湘南海岸を走るコースで、都心から近

いこと、正月の箱根駅伝とコースが一部重なっていること、富士山を望む絶景であること、

東京マラソンの抽選に洩れた方が集中するなど、今や大人気の大会です。

 

2年前から、せっかく地元の平塚市を走る大会であるし、日頃積み重なるストレスと、

運動不足によりメタボ一直線となっている身体を、湘南の潮風と青空の下、思う存分発散

させたいという自己中心の目的で、私が発起人となり「皆で湘南の風になろう」をスロー

ガンに、病院職員や関係者から10kmの部への出場者を募りました。

 

 当院は常勤職員が約150名、非常勤を入れても250名ほどの小さな病院ですが、今年の

11月8日の同大会では、66名程の仲間が10kmに参加して一緒に汗を流しました。仲間の

内訳は男性41名、女性25名、年齢は18〜75歳と幅広い年齢構成で、職種は医師6名、看

護師4名、MSW1名、理学療法士2名、薬剤師10名、コメディカル31名、医療系雑誌記者

3名、松本深志の同窓生9名と多彩な顔ぶれでありました。

 

 今年の夏頃、この66名の仲間の数名から、今年のホノルルマラソンへの出場を誘われ、

私は10月にエントリーを決断致しました。私にとっては初のフルマラソンです。

 

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 卒後32年目となる高校時代の有志で構成するメーリングリスト(ML)に、私がホノルル

マラソンに出場する事は以前から公表しておりました。

 

 12月10日20時、いよいよ成田から飛び立つ1時間前、そのMLへの同級生からの投稿

が発端でした。

 「武内 応援するよ…」の題名で送信された高砂君からのメールを、私が偶然にも空港

内でキャッチしたのです。

 

 高砂君は翌11日から、ご家族でホノルルに旅行に行くとの事で、私のゼッケン番号、

マラソン時の服装を聞いて来ました。

 私はゼッケン番号18619と、青地に白で「済生会平塚病院」と印字されてタスキを掛け

て走る旨を返信しました。

 高砂君はヒルトンホテルに、私はハイアットホテルと、お互いに宿泊先をMLで教え合っ

て、私は日本を旅立ちました。

 

 2009年のホノルルマラソンは12月13日の早朝、夜も明けない午前5時の号砲と共に

花火が盛大に打ち上げられ、2万3千人がアラモアナショッピングセンター前からスター

トを切りました。

 クリスマスイルミネーションに飾られたダウンタウンを通過して、再びアラモアナ通り

に戻って来た時、私は高砂君がヒルトンホテルに泊まっていることを思い出しました。し

かし、まだ午前5時半過ぎで日の出もなく周囲は真っ暗、こんな早朝から起きて32年間も

会ったことがない高校時代の同級生が走るのを応援するのは、自分だったら面倒でやらな

いなと思いながらも、もしやと思って沿道寄りを走ることにしました。

 

 2回目の給水所を通過した5時45分頃、スタートから約7km付近、いきなり沿道の群衆

の中から「武内ガンバレー!」という大声が聞こえ、横を振り向くと32年前の高校時代の

面影が僅かに残った高砂君が、トンボの校章と29回生を意味した29と書かれた画用紙を

両手に持って、沿道を一緒に走っている姿が目に飛び込んで来ました。

 私は「アッ、高砂だ」「起きて待っていてくれたんだ」と思いながらも、その驚きと感

激で声を出す事もできず、右腕を大きく振って応えるのが精一杯でした。

 32年ぶりのトンボの一瞬の遭遇、上空は満天の星空でありました。

 

 その一瞬の想いを胸に抱きながら、私は走り続けました。

 あの画用紙の絵は日本で書いたのだろうか、時間掛かっただろうなあ、早起きして眠い

だろうなあ、よく2万3千人の走者の中から見つけてくれたものだなあ、彼はこれからホ

テルに帰って家族に報告するのかな、ホノルル滞在中に再会できるかな、だけど、どうし

てあの瞬間自分は「ありがとう!」と叫ばなかったのだろうか、など万感胸に迫るものを

感じながら、ダイヤモンドヘッドの脇を走っていました。

 

 7時頃、朝日の陽光を正面から浴びながらハーフ地点を通過しました。

 私はフルマラソンに挑戦するのは、今回が初めてでかなりの不安を覚えてスタートしま

した。練習で20km以上走ると脚が痛くて動かなくなってしまい、歩いている方が早い位で

ありました。従って今回の初挑戦も、目標は欲張らずに5時間半、可能なら5時間切りを

目指しておりました。

事前のマラソンセミナーなどで、とにかく前半はゆっくりゆっくり、周囲のランナーに

抜かされることに喜びを感じながら走りなさいと指導されていたので、その通りにのんび

りと走りながら、想いは自然と高校時代の陸上部の事や、高砂君の事を思い浮かべて気持

ち良く走っておりました。

 

30kmを過ぎても苦しくも痛くもなく、まして疲れもなく、ホノルル滞在中に彼に応援

の御礼ができるだろうかと思いながら、爽快にホノルルの風に同化していました。

そして、ゴール前の直線道路で有森裕子さんの大声援を受けながら諸手を挙げてゴール

しました。自分の時計を見ると4時間28分50秒で、当初の目標よりも1時間早く、私

にとっては快挙でありました。

 

ホテルに戻ってから、彼のホテルに電話を入れましたが不在のため、留守電に今朝の

応援の御礼を入れ私も外出しました。夜半、ホテルに戻ったら、律儀にも彼からのねぎ

らいの伝言が残されておりました。異国の地で32年ぶりのトンボの絆を実感しました。

 

帰国後、彼が作成したトンボの校章を書いた応援画用紙の写真がMLに添付されました。

私はそれを見て、あの一瞬の触れ合いを想い出し感動を新たに致しました。

高砂君、本当にありがとう、今度は日本で再会しましょう!と返信致しました。

 

今回のフルマラソンへの初挑戦は、完走できた喜びはさることながら、期待をはるか

に上回る高砂君の心温まる応援や沿道の声援、ボランティアの方々のハートフルなアロ

ハスピリッツを肌で感じ、言葉では表現できないほどの感激を覚えました。まさに愉快、

満足、感謝の4時間半でありました。

 

 

 

文責 : 武内典夫

     役職:社会福祉法人恩賜財団 済生会平塚病院院長

        社会福祉法人恩賜財団 済生会湘南苑苑長

     専門:整形外科、股関節外科、小児整形外科

     社会福祉法人恩賜財団 済生会平塚病院

     〒254-0046 神奈川県平塚市立野町37−1